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日本書紀にも登場する「岩船」。その悠久なる歴史を時代ごとに紹介します。

岩船大祭まで

岩船の歴史

是歳治磐舟柵以備蝦夷遂選越与信濃之民治置柵戸
〜(大化四年(649年) 日本書紀二十五孝徳天皇)〜

「この年、蝦夷に備えて磐舟柵を治める。越と信濃の民を送って柵戸を治める」


磐舟柵

岩船の歴史は大変古く、日本書紀の中にもすでに「磐舟」という地名が出てきます。 大和朝廷時代、蝦夷地征伐に向かう前線基地として岩船に柵を作ったとされています。 このことから、すでにこの場所には人々が生活をしていて「岩船」が存在していたいたことがわかります。 ですが、実は、もっと古くから「岩船」はあったようです。



古代(弥生時代、古墳時代)

その始まりは古く、約2000年前の弥生時代、すでにこの地域一帯に生活していた人々がいました。
そんな古い歴史を示すのが、岩船付近で確認されている遺跡の存在です。
これまでに行われた発掘調査では、

  • 砂山遺跡(弥生時代、1〜2世紀)
  • 磐舟浦田山古墳群(古墳時代、6世紀)
  • 三角点下遺跡(古墳時代、6〜7世紀)

など、古代の遺跡がいくつも確認されています。
当時の「岩船」はどんな姿で、どんな景色だったか、とても興味深いものです。



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飛鳥時代・奈良時代

前述の『日本書紀』の通り、この時代、この地に磐舟柵を作ったと記されています。
646年の「大化の改新」から、わずか3年後の649年のことです。

しかし、残念ながら、この柵は発見されていません。
ですが、同時期の遺跡が複数存在すること、また「岩船」の地名とのつながりなどから、 浦田山丘陵付近に所在したとする説が有力視されています。

また、遺跡群から漁業に使用した思われる石錘(石製の重り)も出土しています。
この頃には、港町としての始まりがあったのかもしれません。



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平安時代

石船神社

この時代に岩船町の象徴でもある、「石船神社」が建立されます。 社伝によると大同二年(807年)に北陸道観察使であった秋篠安人が京都の貴船明神を勧請したと伝えられています。平安時代中期に制定された「延喜式」の中では岩船神社は磐舟郡八座の筆頭に挙げられています



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鎌倉時代・室町時代・戦国時代

この頃になると「磐舟」は「岩船」とも呼ばれるようにもなってきたようです。
この頃から岩船は日本海沿岸随一の港町として発達していきます。
それは後に発見された遺跡群から瀬戸・美濃焼、珠洲焼、越前焼などの国産陶器や中国産磁器などの遺物が多く出土していることからその賑わいぶりが想像できます。
そして室町時代の資料「建武年間」の中に「岩船宿」という言葉が出てきます。
港町として栄え、また船の寄港する港として、宿場町としても栄えていったと考えられます。

そして室町時代に、岩船は平林城(現村上市平林)を本拠とした上杉家家臣、色部氏の領地となり、戦国時代末期まで色部氏の支配が続きます。 色部氏の資料「色部氏年中行事」には岩船の行事など様々なことが記されています



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江戸時代

江戸時代前期、岩船町は上岩船・下岩船の二つの行政区に区分され、上町は伴田家、下町は藤井家がそれぞれの庄屋を勤めました。

江戸時代中期になると、上岩船・下岩船の中でも「上大町」「下大町」「上浜町」「下浜町」などの町内に分かれるようになり、町も賑わいを見せていくことになります。
またこの時代、今も伝わる「岩船大祭」の原型がすでにあったようです。
最初の頃は、「上岩船」「下岩船」の二台のお車切りを曳きまわす、と岩船神社の社伝にあったそうです。
そして江戸時代中期、伴田様の文献に「上岩船」「下岩船」から各町内ごとのお車切りができたと記されています。



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明治以降

明治〜大正時代、岩船港では小・中型の船舶による交易がいっそう盛んとなり、港は商港・漁港として最も賑わいをみせました。


昭和29年(1954年)に、村上町・岩船町・瀬波町・山辺里村・上海府村が合併し、村上市(旧村上市)となりました。


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